記事の内容:私ことROCKが海外と日本の文化交流を目指すきっかけと当ブログの目的について
※この記事は2020年7月7日に更新しました
みなさんはじめまして、このブログ「ログROCK」を運営しているROCKと申します。
私は現在34歳の社会人経験10年目、東京で満員電車に揉まれながら営業マンをしています。
日中はメーカーの営業として、仕事が終わればこうしてブロガーとして2足のわらじを歩んでいます。
もともとは故郷の新潟県を高校卒業と同時に飛び出して、京都の大学へ進学、そのまま関西の化学系商社で働いておりました。
新卒で入社した会社は、大学や企業研究所に薬品や消耗品を届ける「配達営業」という仕事。
毎日朝の7時に出社、深夜11-12時近くまで働くという過酷な環境でした。
毎日寝るだけの日々でしたが、営業所の先輩・上司の方々の存在と、3年目のときに入社してきた新卒の事務員の後輩と社内恋愛をしていたので、周囲の人間関係で耐えることができたと言って良かったとおもいます。
その時のわたしは思いました。
「こうして先輩・上司と一緒に苦楽をともにしながら、今の彼女と結婚して家庭を持ってこの会社で骨を埋めていくんだろうな・・・」
でも2020年現在、私はその会社を辞めて、彼女とも別れ、こうして東京でサラリーマンをしています。
それは2014年。
私の人生のターニングポイントになったバックパッカー世界一周の旅からすべては始まっています。
この記事は私が安定した幸せを捨ててまで、なぜ海外を目指すことにしたのか。
そして、このログROCKを立ち上げた理由について紹介しております。
もしもご興味がございましたら、しばしお付き合い頂けますと嬉しく思います。
もくじ
わたしが叶えたい目標は日本と海外のかけ橋になること
このブログを通して発信していきたいことが2つあります。
①自分の「今まで」経験してきた失敗や得たものを記事にして、読んで下さる方に生きるうえで参考になってくれたら。
②自分が「これから」挑戦していく過程をとおして、読んで下さる方に「こんなことをしている人がいるんだ」と一種の刺激を与えられたら。
そう考えています。
では、なぜそのような考えに至ったのかというのが、今回私がお話したい自分の夢が大きく関わっているからです。
私には人生の目標があります。
「海外に住む日本が好きな外国人に向けて、モノとヒトを通じた日本と現地の文化交流」を仕事にする
日本製品を海外へ輸出し、または海外の製品を日本に輸入し。
事業を大きくした先は、日本で働きたい人と海外で働きたい人とのインターンシップ事業に携わりたいのです。
そうして、日本に関心のある人や日本が好きな人がもっと日本を知って好きになってくれる。
その思いを支える仕事を創るのが私のミッションなのです。
幼少期:自分の父と「世界」へ飛び出したきっかけ
私の父親は現在68歳(2020年2月執筆時点)タイのバンコクで高層マンションの14階に住んでます。
母は地元の新潟で私の兄と2人暮らし。ようは単身赴任というものです。
父は定年まで勤め上げた某大手電機会社(S社)で液晶テレビの設計に携わっていました。
退職後に持ち前の技術と長い間中国で働いていた経験と言語能力を活かして中国の超大手化学薬品メーカーに工場機械の設計士として働いています。
対外的にみれば、素晴らしい経歴の父ですが、私はそんな父をよく思っていませんでした。
家庭をかえりみず仕事と趣味にまい進する父親を「好き勝手にやって家族を苦しめて」と距離を置いていました。
いっぽう、私は地元の新潟を出て、京都で大学時代と卒業後に入社した薬品卸商社で安定した給料と福利厚生。
そして当時社内恋愛で付き合っていた年下の後輩との順調な交際に満足した日々を送っていました。
そうして、入社4年目の春。交際相手のお母さまにご挨拶を済ませた頃に、ふと思いました。
「自分の人生はこのまま進んで良いのだろうか?」
このまま交際している彼女と結婚をして、この会社で定年まで勤めて、やがては子供が出来て、そしたらマイホームなんか建てちゃって・・・。
そんな人生シミュレーションを頭の中で思い描いた時、感じたんです。
「そんな人生がほんとうに自分が望んでいることなのか・・・?」
世間一般の方が思い描く人生の流れがどうにも自分には上手くハマらなかったんです。
「いやいや、自分はただこれからやってくる「結婚」やらなんやらでナイーブになっているだけだ。」
そうした葛藤を毎日毎日考えて考えて日々を過ごすこと数週間。それでも答えは出ないまま。
「自分はいったいどんな人生を歩いていきたいのか」
その時にふと父親が思い浮かんだのです。
当時小学3年生(9歳)、父親が赴任している中国の上海に家族で遊びに行った時のことを。
1994年当時の上海は2020年現在のような発展した感じはまだ無く、ごった返した「中国」らしい景色だったのを覚えております。
子供の目線で見る初めての海外。
初めて乗った飛行機の離陸時の重力も、同じ顔をしているのに言語が全く理解できないこと、ケンタッキーで頼んだチキンフィレサンドの鶏肉が半生で母がパニックになったこと。
父の友人である李さん夫妻に可愛がって頂き一緒にパターゴルフや上海雑技団に連れていってもらったこと・・・。
他にもたくさんの体験を34歳になった今でも鮮明に覚えています。
それぐらい私には衝撃尽くしの海外体験だったのです。
あの時のような未知のことを知る喜びと興奮。
そうした心の奥から湧いてきた想い。
「自分の人生で本当にやりたいことを世界を見て探したい」
一度思ってしまったことは呪いのように、忘れようにも忘れられません。自分でもわかっていました。
「これはただの逃避だ」
この選択をするということは、簡単ではありません。
期間を気にせず世界を観たいなら仕事を辞める必要がある。
そしたら、彼女との関係も今のままでは続けられるのか・・・?
人生のターニングポイント:たくさん思い悩んだ末に・・・。
当時とてもよくしてくれた会社の先輩Kさん、習い事で通っていた英会話学校で出来た友人色んな方に相談しました。
返ってくる答えは決まってひとこと。
「あほなの?行かない方が良いに決まっている」
その会社の待遇や私のことを理解してくれる彼女の存在を考えたら当たり前の話です。
でも、「行ってきた方が良い」とアドバイスしてくれた方が2人居たのです。一人は会社の先輩Kさん。そして両親でした。
私の相談にKさんは
「やりたい思ったことをやらずにいたら絶対後悔すんぞ!あとは自分がどれだけ覚悟しているかの問題や」
両親は
「最終的にお前が決める問題ではあるけれど、自分がこうしたいという明確な目的があるのならば満足するまでやってみなさい」
背中を押された気分でした。
ですが、人生における重大な選択肢をまえにスパッと決められるわけもなく・・・。
「けっきょく自分はどちらを選べば良いのだろう・・・」
答えの出ないまま日々を過ごしていたある日。
その答えを導いてくれたある一冊の本がありました。
それは先輩のKさんと大阪・梅田の書店でKさんが見つけて下さった本
[nlink url=”https://rock1105.com/meet-the-world-105″]
今でもこの本を読みなおすのですが、当時の私にはこの本の作者の置かれている状況が自分の状況と重ねってみえてしょうがなかったのでした。
1ページ1ページを噛みしめるように、じっくり読んでは深く感動し、そして何回も読み返す。
主人公である作者が旅を通じて自分の人生を見つめ直す様を疑似体験したことでいつしか私も
「世界を歩き回って、自分の本当に望む人生のありかたを創りにいきたい」
という考えを持ち始めるようになったのです。
決意:大切なモノを自分から手放して旅立った
そこからの行動は早かったものです。
「世界放浪」を実行に移す2014年1月の1年前に、旅のプランや必要なものをひとつずつ準備していきました。(生まれて初めて狂犬病の予防接種も受け)
仕事にかんしては、それまで惰性気味に毎日働いていたので、俗にいう「うだつのあがらない」社員だった私が、心がまるっと入れ替わったようにモーレツに働きました。
それはすべて自分の今後のため。仕事力を少しでもここで身に着けて飛び出したかったからでした
当時の上司からは「結婚する気になって、ここで骨をうずめる覚悟が出来たんだな」なんて言わたことも。
そうして、出来る限りの資金を貯め込み、毎日英語の勉強を詰め込んで。そして出発のめどがたち、ついに彼女に私の考えを伝えました。
その時の私は彼女のその言葉にあまえようと考えました。
普通ここまで言ってくれるお相手はこれから先も現れてこないと思ったから。
それぐらいに彼女の想いが嬉しかったのです。
でも、ここまできて、また私は迷ってしまいました。
「そこまで与えられて本当に良いのだろうか」
そのことについて再度両親に相談すると、帰ってくる内容は全くの正反対。
父「そこまで言ってくれるなら、彼女には待っててもらえ。どちらも手に入るのならそれで良いだろう」
一方で
母「そこまでしてもらう資格は夢を追うことを選んだあんたには無い。女性の一年はとても大事なのよ。それにあんたにはおとうさんと同じ選択を取ってほしくないのよ」
どういうことなのか?
母のいうその意味は、かつて父も同じようにどちらも得ようと自分にとって都合が良い行動をとったということ。そして、たくさんの人を傷つけたということ・・・。
それを母から聞かされた時、私は決心しました。
「すべてを手放してでも、旅に出よう。それがけじめだ。」
そうして2013年の11月、会社に辞表を出し、悲しむ彼女に別れを切り出し、私は2014年1月にバックパッカーとして世界へ飛び出していきました。
転換期:世界50ヵ国を巡って生まれた「目標」
2014年1月からスタートした「人生の目標づくり」の旅。
マレーシアから始まり西方向で南アジア→中東→東欧→北欧→中欧→西欧→英国→北米→台湾→終点の中国・上海を巡る50か国の壮大な旅。
あっという間に駆け抜けたバックパッカー旅は2015年1月に終了しました。
その中でみてきた世界はどれも刺激的で、どれも美しく。
なかでも人生の「目標」を作るきっかけになったのが21か国目の「ラトビア」でした。
(『バルト三国』のまんなかの国になります)
ラトビア共和国。人口わずか200万人ほどのとても小さな国。
かつてTV番組で「99%の日本人が一生行かない」とまで報道された旧ソ連が支配していた国。
そこで私はラトビア人が運営する日本文化の学習塾の存在を知ったのです。
アポイントを入れて訪ねた私は授業参観をさせて頂きました。生徒は7歳から20歳とばらばら。みんな一生懸命日本語について読み書きをしています。
そんな姿をみて心の奥底に「火」が灯る気持ちになりました。
「日本人がまったく知らない国でも、こうして日本のことを好きでいてくれる人たちがいるんだ」
すごく胸をうたれました。
授業終了後に生徒たちに質問してみました。
体験してみたいことはある?
ある子は「大阪の新世界に行きたい。串カツ食べたい」
ある子は「カルピスと雪見だいふく食べたい。」
またある子は「USJ(ユニバーサルスタジオジャパン)に行ってみたい」・・・。
よくそんなこと知っているな!と質問したこちらが感心するぐらい具体的な「夢」がちらほら出てきたのです。でも、みんな最後は
悲しい顔をして落ち込んでしまいました。確かに、ラトビアから日本までは飛行機で乗り継ぎをして約15時間程度。
往復で平均10万円はふつうにかかります。
私たちからしても「高いな」と思うのですが、ラトビア人からすると単純な「高い」レベルではないのです。
ラトビアGDP11,806ドル(2014年当時【引用:世界経済のネタ帳】
(比較として日本のGDP2014年時は約36,000ドル【引用:世界経済のネタ帳】
その時はそんなことまったく知らなかった私でしたが、目の前で「どうせ叶うこともないけどね」といった様相で、どこか諦めた表情をした子供たちをみた瞬間
「この子たちのやる気を支える仕事をしたい!」
全身に電撃がはしったかのような興奮を感じたのが今の「目標」の起源でした。
さっそく挫折:自分の都合で世界は廻っていない
それから、旅を終えたあとは当時「アンテナショップ」を海外に出すぞ!といき込んで、某大型家電店にて小売業の経験値を積みながら貯金をしてました。
そして、2015年11月に「ラトビア」へ再訪。
それは、自分のお店を作るための市場調査が目的でした。
しかし、現実はそんなに自分の都合でまわっておりません。
LIAA(ラトビアでの経済開発支援機構)で責任者にアポイントをとったは良いもののラトビアで労働許可をもらったり、滞在の許可をもらったりする条件が非常に厳しいということを延々聴かされ。
ラトビアの日本大使館に突撃して話を聴くも、海外で実店舗をもつコストとリスクふくめ現実的ではないとのご意見をいただき・・・。
開幕からこのあとどうすれば良いのだろうか・・・。
そんな出鼻をくじかれまくった私にラトビア人の友人から
「まずは、他国で実績を作ってから最終的にラトビアに乗り込んでいけば良いんじゃないか。諦めずに一歩ずつやっていこう」
と励まされ・・・。
であれば、まずは日本で会社を立ち上げるのが良いのか・・・?
しかし、当時のあたまの中は海外のことしかなかったので、なにをどうしたら良いのか皆目見当がつかず・・・・。
そこで、旅でお知り合いになった社長様に相談したところ
「すでに海外とパイプのある会社に入って駐在員を目指す形からやってみたら。」
たしかに!
そう決めたらすぐに日本へ帰りました。
そうして就職活動を開始したのが、2016年1月。
当時30歳独身の私は書類選考でお祈りメールされること数多く。
それでも、どんな分野でも良いからこれまでのルートセールスと小売業務を生かせる職場を探します。
その時出会ったのが、2016年当時に就職した食品商社でした。
卸業主体のこの会社は、2015年に海外事業部を発足させたばかりでした。
将来開拓業務を任せてもらえれば、きっといつかは「ラトビア」に近づける!
海外ビジネスの経験もつめる!
面接でも将来的に海外事業部の方へ行ければと熱意を伝え、無事に入社することが出来ました。
「よし!ここからさいしょの一歩を踏み出すぞ!」
気合を入れて入社しました。
やっぱり自分の都合で世界は廻っていないことを知る
「駐在員の道」が絶たれたことを実感したのは、2017年5月。それは、社長からの言葉でした。
「数年後に駐在員として派遣させるからね!って言ったけど、この事業ずっと大赤字なんだよ。存続自体危ういんだよね。悪いけど、駐在員は期待しないで。いまの部署で頑張ってよ!」
そんな内容を言われた瞬間、おもわず「やっぱりそんなに甘くはなかったか」と苦笑してしまいました。
ですが正直、堪えました。
なんのために実家の新潟からわざわざ千葉まで来たのか。
今までわがままな顧客からの無理難題や先輩・上司の理不尽に笑顔で耐えてきたオレの心労は何だったの?
休日出勤させられても、「いつかは駐在員」で目の前の理不尽に耐えてきた意志が「ぽっきり」折れたのを実感したのです。
けっきょくは、「自分で動いてなんとかするしかない」そう確信したのです。
海外赴任を考慮したメーカー業に就き、そしていま・・・・
2017年5月から始めた起業・独立への準備は、色んな人の話を聴いたり、調べたりすることからでした。
その時初めて参加したTIPS(経済産業省が管轄する機関が運営する)のワークショップを受け、多くの社長や私とおなじように将来の「目標」に向かって情報収集をしている人に出会いました。
他にも東京商工会議所に相談しに行ったり(社内起業した方が良いんじゃないのか?とアドバイスを頂いたりしましたね・・笑)
図書館に入り浸って、ビジネス書籍を読み漁ったり・・。
そんな中たどり着いたのが、この「ブログ」を始めるということ。
数多くの社長・個人事業主の方から頂いたのは
「よく起業・独立っていうと、会社辞めて貯めたお金で事業を起こして~とか言われるけれど、それでコケたらどうすんの?って話。国や自治体から公的融資を受けて~もよく言われるけど、正直いまの時代は、ネットがあるんだから、すぐに始められて費用がかからないことから始めるべき」
との声が多かったのです。
背水の陣で勝負してはいけない。
そういうことをはっきり言われました。
そのなかで勧められたのが「ブログ」でした。
2020年現在、私は本業に追われながらもブログを続けてようやく「Google Adsense」に合格し、また今の会社の厚生でMBAのカリキュラムを受講したりしています。
現在34歳、あと1-2年の間には副業の枠で収益化をしたうえで、海外に出て活動をしていきたいと考えています。
今自分が出来ること、やってみたいことをブラッシュアップして足場を作っていきたいのです。
そして、いつかたどり着いてみせると決めた「ラトビア」までかならず。
このブログ「ログROCK」は、私の経験してきた「世界」「旅」「ビジネス」の3本をメインテーマに記事を紹介していきます。
ここまでお読みくださったあなたがもし「私の人生はこれで良かったのかな・・?」とお悩みであればこそ、私は伝えたい。
「外の世界には自分らしい生き方ができる可能性にあふれている!」
私の記事があなたの背中をそっと押す「きっかけ」になることを目指して更新していきます。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ROCKでした。
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